スターティング ポイント 3



壊れた心の欠片を拾い上げて


そっと手のひらに包み込む

一片たりとも拾い忘れのないように

よく周囲を見て足元を見る 心の眼で

心はガラスのように脆いけれど

熱い炉に溶かせば再生できる

限りない愛情という名の 熱い炉で



先生は色褪せて見えた花々に、弟の心を壊してしまったのは自分なのだと気付いた。

静かに瞼を閉じ、

―お兄ちゃん、和泉と遊んでやってね。和泉の話を、聞いてやってね―

兄の自覚を持って、弟に接しなさい

母の言葉を噛み締めて、

―誰かのために、考える人生であって欲しい―

意識を自分に置かず、広く社会を見なさい

―お前を必要とする人だよ―

生きている感謝を、社会に還元しなさい

父の思いを知る。



三日ぶりに会った弟は、その名のままに先生の心を潤した。

そしてテーブルに飾られた生花は、和泉を追う視界の端で、淡い花びらは可憐に美しく色鮮やかに先生の眼に映った。


川上先生との会話にも、今度は迷いがなかった。

―まだ三、四日は、退院の許可は出さないからね―

―はい。和泉を宜しくお願いします―

―和泉君は心配いらないよ。それより君の方はどうなんだね。店を閉めて、その後のことは考えているのかね―

―いえ、それはこれからゆっくり考えます。当面生活するくらいの蓄えは、両親が遺してくれていますので―

―ふん・・・―

川上先生は短く頷いたきり、それ以上何も言わなかった。




「いきなり迎えに来たと思ったら、トランプだご飯だって。
肝心なことは言わないくせに、どうでも
いいことはよくしゃべるんだからさ」

「くすっ、そうみたいだね。渡瀬も零してたよ」


―肝心なことは言わないくせに、余計な言(こと)は多いんだ―


「へぇ、そうなんだ。渡瀬、可哀そー」

渡瀬と聞いても、和泉に一時ほどの毛嫌いする様子は見られなかった。

むしろ仲間意識のような苦笑いで渡瀬を気の毒がった。



「兄貴のあの性格だろ。店閉めたこともここの学校の先生になったのも、まったく普通に言うんだからさ」



退院して家に戻った和泉に、先生は店を閉めたことを伝えた。

―え!?どうして!!―

―和泉、花屋の仕事って、花が触れるだけじゃだめなんだ。僕にはまだ無理だった―

―・・・どうしても無理なの。おれも店のお手伝いするから!だって、お父さんとお母さんの店だよ!―

―だから尚更、形だけ店を開けていても、父さんも母さんも喜ばないからね。
だけどいつか必
ず、もう一度店はするよ―

―いつかって・・・また店するなら、そんなに長くじゃないよね?少しの間だけだよね!―

―少しってわけにはいかないなぁ・・・。
どちらにしても閉めたままじゃ、商店街にも迷惑が掛か
るからね。引っ越しも考えなきゃいけない―

―店なくなるの!?そんなの、おれ・・・やだ!―

―大丈夫、なくならないよ。ちゃんと父さんがとっておいてくれているからね―

―お父さんが・・・どこに?―

―ここだよ―


先生は自分の胸を指差した。


―志信、その夢はお前の人生の余生に、父さんがとっておいてやる。
自分のためだけを考え
ながら暮す人生は、お前にはまだ早い―


父からもらった人生の宿題は、兄から弟へ。

不満気に頬を膨らませて俯く和泉に、先生はかつての自分を重ねた。

今は理解出来なくとも、いつの日か和泉は気が付くだろう。

父に遠く及ばなかった兄の未熟さと悔しさを。

その時こそが、自分の人生を自分の足で歩く第一歩となるのだ。



和泉は頬を膨らませたまま、聞いた。

―・・・お店やめて、どうするの?おれも学校やめたい―

―店と学校は違うよ。随分遅れてしまったけど、二学期からならまだ間に合うよ―

―でも・・・おれ、行きたくない―

小学校から中学校に変わる新しい環境の中で、それまでの友達は和泉が長く休んでいる間にすっかり疎遠になってしまった。


―和泉、学校は行かなくちゃいけないよ。いまの学校が行き辛いなら、新しい学校はどうだい

―新しい学校?―

―そう、例えば和泉が入院していた学校なんてどうだい―

―お兄ちゃんの母校じゃん。勉強、難しいんだろ。おれ入れるの!?―

―大丈夫さ。半年みっちり勉強すれば。出来るなら和泉が一緒の方がいいしね―

―・・・??―

―和泉の入院中に校長から誘われたんだ。働かないのはだめだってね―



「おれ、自分のことより、兄貴に驚いた。はぁ?って、感じだよ。いつのまにか学校の先生になってんだもん」

「川上先生の口添えかな?何だかんだ言われても、先生は川上先生に認められているものね」

「う〜ん・・・兄貴から川上先生の名前は聞いていないけど、たぶんね。兄貴もわかってんじゃないの」

和泉はまた、ニカッと白い歯を見せて笑った。




それは和泉の入院中のことだった。

医務室はオフィスセンターの中にあり、いまの時期は夏の花シモツケが別館にまで続くほど咲き乱れていた。

先生は懐かしさに誘われるように、その周辺を散策した。

建物の裏側に回ると非常出口を兼ねた裏口があり、和泉のいる二階の病室も見えた。

裏側にはシモツケに交じって小さなスペースの花壇に、これも夏の花向日葵が陽に向かって咲いていた。

その前に立って見上げると、そこが和泉の病室だった。

先生は眩しそうに目を細め、暫く佇んでいた。


―本条君―

不意に声がした。

振り向くと、白髪の紳士然とした人物が穏やかな笑みをたたえて立っていた。


―・・・校長。お久し振りです―

―卒業式以来ですね。どうしたんです?こんなところで―

―弟がここに入院しているので、面会です―

校長は先生が向けていた視線の方を見上げながら、尋ねた。

―弟さんの具合は?―

―お蔭様で、あさって退院です。ありがとうございました―

―それは良かった。僭越ながらご両親のことは聞かせていただきました。
ご両親の分も、君が
守ってあげねばなりませんね―

―はい。ご心配をおかけ致しました―

校長が誰に聞いたのかは言うに及ばず、先生もまた聞くに及ばず。

その誰≠ェ川上先生であることは、承知の上のことだった。


―ところで、私はここの校長ですからね、卒業生のことも気になるものです。
大学院をやめ、お
父上の花屋をやめて、君はどうするつもりです?―

―しばらくは、ゆっくり考えようと思っています―

―しばらくとは?―

―半年か・・・一年か・・・―

先生のはっきりしない返答に、校長は顔を曇らせた。

―その間は働かないつもりですか―

―はい。弟のこともありますし、様子を見ながら働く先を・・・―

―それでは、ここで働きなさい。教員資格は、持っていますね?―

次第に校長の口調が、厳しさを増す。

―あの・・・―

―私が聞いているのは返事です―

卒業生であろうとも、教師との一線は規律正しく引かれ、

―・・・はい―

口答えは許されない。


―まず働きなさい。人と触れ合い経験を積み、それが身となり大切な人を守る糧となるのです。
その営みが社会です。我が校の卒業生が、たとえ一時たりとも社会の無駄でいることは許
しません―


―はい―


―君には、指導部の籍を空けておきます―

―し・・・―

―返事!―

―はい!―


―必要書類はオフィスセンターで確認して、九月の新学期までに完了しておくように。
但し書類
上は9月からでも、教師としての自覚はたった今から求められると肝に銘じておきなさい―


それは溢れる花々の風景と共に、厳格な進学校の校風を思い起こさせた。



伝統は 一世紀の昔より変わることなく

規律乱し者は 未だ体罰を受く

しかし 痛みに涙するだけでなく

彷徨いし心をも救われれば 溢れる花々に

希望の光 安らぎを得る



―校長。僕はもう一度、この学校で学びます―


―また校長室に花を飾ってもらうのを、楽しみにしていますよ。本条先生―


校長は元の穏やかな笑みに戻り、教え子の熱い眼差しに言葉を添えてその場を去った。




「おれもここ受けるって決めたら、川上先生が医務室管轄のスタディルーム使用許可を取ってくれてさ。
兄貴と一緒に通えるようにって、塾みたいなもんだな」


「医務室管轄のスタディルームは、僕も何度か利用したことあるよ!
看護士さんが勉強見てく
れるんだよね」

「そうそう!おれは午前中だけだったけど、毎日山ほど宿題出されるしさ。
マジ、半年間みっち
りだった。あれで受かんなかったら詐欺だよ」

「先生の言ったことは正しかったね、努力が実ったんだよ」

「どうだかー?だって兄貴、別の私学の願書も取り寄せてたんだぜ。それも二つも!
全然おれ
の実力信用してなかったってことじゃん!」

肉親の感情からすれば、信用より心配が上回るのは致し方ないことだとは思うけれど、過去の笑い話になっているので黙って聞いておくことにした。




和泉が合格して入寮したことで、先生も学校の宿舎に移った。

和泉曰く、兄弟揃って一番嬉しかったのは、食事の心配がなくなったことらしかった。



「それからのことは、前に少し話したと思うけど・・・」

「うん。入学後なかなか馴染めなかった和泉を水島君がバスケに誘ってくれて、
それがきっか
けでクラスに溶け込む事が出来たんだよね」

「まあ・・・そうなんだけどさ・・・」

和泉の話し方が、急に歯切れ悪くなった。

それまでの話が非常にデリケートな内容なので、どうしたのと催促するわけにもいかず、和泉が続きを話すまで待つことにした。


「・・・おれ、高等部に上がるまで、ずっと川上先生のカウンセリング受けてたんだ」


高等部に上がるまで・・・


―その時の兄貴のことについては、おれが高等部に上がる時に川上先生が話して聞かせてくれたんだ。
身も心も健康になって、ちゃんと兄さんを理解出来るようになったねって―


ああ、そうだったんだ。それが川上先生の最後の診察だったんだ。

少し考えればわかりそうなことなのに・・・。

むしろ入学後の方が、メンタル面でのサポートが不可欠だということに。



「入学したらしたでさ、兄貴は指導部の先生だろ。
休みに宿舎に帰ると、謹慎中の生徒に出く
わすことがあるんだよね」


そう頻繁ではないにしても居住区が同じなので、見たくなくても目につく部分は避けられなかった。

和泉には先生が自分を置いて、そちらの生徒に掛かりきりになることが寂しかった。

それは両親が亡くなった時のような他人感覚の寂しさではなく、兄を取られるような妬き持ちに近い感覚だった。


先生と生徒。仕事であっても、そこに愛情がなければ生徒を導くことは出来ない。

兄と弟。先生と生徒の関係であっても、肉親の愛情はどうすることも出来ない。

先生として他の生徒との分け隔てない愛と、兄としての肉親の愛。

先生は使い分ける術を知っていても、和泉には区別がつかない。

そこには和泉自身の心の持ちようが、大きく係わってくる。

それをサポート出来るのは、この場合先生ではなく第三者なのだ。

先生は入学後も、和泉を川上先生のもとへ通わせた。



「最初は一か月毎だったけど、バスケするようになってから三か月になって.
半年に一回なんて
頃は、川上先生のカウンセリングっていうより兄貴の話ばかりだよ。主に愚痴ね」


確か渡瀬も似たようなことを言っていたような・・・。


―あの時は直接川上から電話があったそうだ。
先生は川上が苦手だって言ってただろ、顔を
合わすと説教が始まるらしい―

―説教・・・わかる気もするけど・・・。だけどさすが渡瀬だね、よくそこまでわかったね―

―毎日ケガの手当てに先生と川上の間を往復してみろ。
両方からどれだけぶつぶつ愚痴を聞
かされるか・・・いやでもわかるさ―



「川上先生はカウンセリング主体だろ、荒っぽいのが嫌いなんだ。
いつも傷薬をごっそり持って
いくって、それも気に入らないみたいだし」

和泉はそう言うと、ケラケラと笑って話を締め括った。







「和泉?」

「ん?」

「僕は病気をしてからいつも思ってた。どうして僕だけがって」

「そりゃ、思うだろ?おれだって両親の事故のときは思ったもん」

「でも僕は・・・こうして復学出来たいまでも時々思うんだ」

「・・・・・・」

和泉の翳りのない真直ぐな心は、きちんと整理がついていることを物語っている。

言葉を探しているのは、僕のため。

「・・・僕も和泉のように強くなりたい」

「何言ってんだよ、おれと聡じゃ全然違うじゃん」

「違わないよ。みんなそれぞれの人生に、それぞれの試練がある・・・同じだよ」


あの言葉の意味は、先生自身。

―君の人生だからだよ。君だけの試練だ―


「ん〜、そうかなぁ。そんなふうに思えること自体、おれは十分強いと思うぜ!
・・・少しは自分の
強さを自覚しろよ、優等生!」

一生懸命、和泉が僕を盛り立ててくれる。

ああ、同級生っていいな。



人生の

歩く道のりは独りでも

喜びは分かち合い

悲しみには肩を抱く

いつも僕の傍に

心優しき 同級生



「優等生か・・・じゃあ僕も告白しちゃおうかな」

「告白?」

仰々しい言葉に驚いたのか、和泉の眼が一点に静止した。

「うん。さっき和泉が感心してくれたことは、先生から叱られたときに言われた言葉なんだ」

「先生って、兄貴?」

「そうだよ。ちょうど入院前、自暴自棄になって・・・死んでもいいって思った。
そしたら先生に胸
ぐらをつかまれて・・・」


―くっ・・苦しい・・・、先生・・やめ・・―

―苦しいかい・・・生きている実感なんてないだろう。君がしようとしていたことはこういうことだ


胸ぐらをつかまれたと言った途端、静止していた和泉の眼が険しいものに変わった。

優しいばかりじゃないことを知ってはいても、手荒い所業を聞けばやはり身内ゆえの葛藤があるようだった。

しかし和泉に複雑な表情で見つめられれば見つめられる程、僕の中の羞恥が呼び起こされる。

相当な早口で、言い掛けた後を続けた。


「そのまま膝の上に押さえつけられていっぱいお尻を叩かれたっ」


「はっ?・・・ぶっ、あはははっ!!やっぱり兄貴だ!!」

複雑な表情から一転、和泉は拍子抜けしたように大笑いした。

「しっ!夜中だよ、声が大きいってば」

「大丈夫だって・・・ぷっ、くくくっ・・・」

「もう・・・和泉、笑いすぎだよ」

気が済むまで笑うと今度は嬉しそうな笑顔を見せる和泉に、何だか怒る気が失せてしまった。

それはたぶん、和泉がとってもいい笑顔をしているからなのだろう。


―いい笑顔は、伝染するんだよ―


きっといま、僕も笑顔だ。

時に励まされ、時に心救われながら、教授された言葉が日々の中に息づく。



「あー、日付変わっちゃったな」

「本当だね。・・・和泉、ありがとう」

「何が?」

きょとんと不思議そうな顔で見つめる和泉に、

「大切な話を聞かせてくれて」

と言うと、ふにっと口元を緩め、鼻の頭を掻きながら・・・







♪〜♯・〜♪♪〜♭〜♪・〜〜

手元の携帯が鳴った。

和泉―?

最後に鼻の頭を掻きながら、へへっと照れた顔の和泉が脳裏に浮かんでいたせいか、つい連想した。


[ もしもし、聡君 ]

「姉さん、どうしたの?」

[ 少しお話したいことがあって・・・あの、お勉強中だったら掛け直しましょうか ]

「この時期で勉強しているのは、受験を控えている三年生だけだよ。
学校に提出する帰省予定
表を作ってたんだ。日にちも決まったしね、何、話って?」


普段メールや手紙が多い姉は、たまに

[ 驚いた?サプライズでしょ!? ]

と、嬉しそうな声で電
話を掛けて来る。

だが、今日はどことなく沈んだ声だった。

[ 聡君・・・お昼過ぎくらいに、お父さんに帰省の件で電話したでしょう? ]

「したよ。したけど、もう父さんから連絡行ったの!?我が家の連絡網は、早いね」

半分冗談めかして言ったものの、僕の帰省を心待ちにしてくれている姉にも電話すればよかったと内心悔やんだ。


[ ・・・お父さんから聞かせていただいたわ。私、自分のことばっかり必死になって、
聡君に帰る
日にちを何度も急かせてしまって・・・ごめんなさい・・・本当にごめんなさい! ]

ああ、そんなことを気にしていたのか・・・。

父がどんなふうに僕の短い帰省理由を話したのかはわからないけれど、姉は最後の方は涙声だった。

姉が謝ることも、ましてや泣くことも、これっぽっちもないのに。

謝るべきは僕。姉の催促を鬱陶しがった結果なのだ。


「みんな予定があるのに、ダラダラしていた僕がいけないんだ。でも、父さんには言っておくよ。
姉さんは泣き虫だから、あまり余計なこと言わないようにってね」

[ まあ!私は泣き虫なんかじゃないわ!それにお父さんは、何も余計なことは仰っていないわよ! ]

「あはは、良かった。それだけ怒れるなら、姉さん元気だ」

[  もう、聡君ったら・・・。帰って来ても、知らないんだから! ]

真面目な姉は、笑うときも泣くときも、怒るときも真剣だった。

そんな姉が怒るときの表情は、たいていぷっと頬を膨らませて・・・・・・そうだ!

「姉さん!友達招待してもいいかな!?」

[ えっ?えっ?えっと・・・聡君のお友達? ]

「もちろんだよ、クラスメイトなんだ。招待出来たら楽しいかなって。
僕も今ふっと思っただけだ
から、これから本人に聞いてみなくちゃだけど」

[ 私は、いいわよ。お父さんもお母さんも、むしろ喜ぶと思うわ。・・・お友達って、渡瀬さん? ]

「・・・渡瀬は三年生だよ?」

[ あっ!あ・・そ、そうね。聡君の・・クラスメイトの方だったら二年生よね!
お友達って聞くと、
前の学年の方たちと勘違いしちゃって・・・ ]

突然渡瀬の名前が、姉の口から出てきたことに驚かされてしまった。

「勘違いなんかじゃないよ。渡瀬も、他の三年生たちとも友達だよ。・・・姉さんは、渡瀬がいいの?」

[ い・・いやだわ、聡君!変なふうに誤解しないで!渡瀬さ・・・渡瀬君とは以前お会いしたことがあったでしょ。
聡君のお見舞いにいらしたのに、私にまでとても良くしていただいて・・・ ]


全力で否定しつつ、しかも渡瀬君≠ニ言い直したところに姉の思いが読み取れた。

姉にとっては一つ年上というハンデが、ただでさえ奥手な恋の邪魔をしているようだった。

密かに見え隠れする姉の淡い恋心。

相手を知っているだけに、弟としては応援したいような寂しいような・・・。

複雑な気持ちに駆られつつ、姉の大切な気持ちの後押しをする。

「そうだったよね。あの後以降、身内以外面会謝絶になってしまったからね。
姉さん、お礼を気
にしていたんだね。ごめんね、気がつかなくて。今度、渡瀬に伝えておくよ」


姉はありがとうと言った後、聡君のお友達に会えるのを楽しみにしているわねと、明るい声で電話を切った。







僕が大学病院に入院していた時、渡瀬は学年代表で何度かお見舞いに来てくれたことがあった。

姉はほぼ毎日面会に来ていて、その日もベッドサイドに座って本を読んでいた。


―見て、姉さん。綺麗だね―

窓の方に顔を向けたままで、姉に呼びかけた。

時刻は夕暮れ時で、赤焼けした西の空がパノラマのようだった。

―・・・綺麗かもしれないけれど、私は嫌い―

そう言ったきり、姉は黙ってしまった。

その頃の姉は、僅かでも負を感じるものに対しては非常に神経質になっていた。

静かに本を読む姉の姿に、闘っているのは僕だけじゃないと何度も思ったものだった。


―コン、コンと、病室のドアをノックする音が聞こえた。

―お母さんかしら―

姉が本を伏せてドアの方を見た。


―聡、具合はどうだ・・・あ、失礼―

―渡瀬!驚かせないでよ!まさか平日に来てくれるなんて―

―駅前に出る用事があったんだ。ついでと言ったら申し訳ないけど、
面会時間に間に合いそう
だったから寄らせてもらったよ―

―ちっとも申し訳なくなんかないよ。ありがとう、渡瀬。こっちが、僕の姉さん―

―こんにちは。遠いところを来て下さってありがとう―

―渡瀬です。挨拶が遅れて、すみませんでした―


それから暫く三人で会話を楽しんだ。

―この千羽鶴も、渡瀬さんですよね―

―僕は持って来ただけです―

―鶴の羽がどれもピンと伸びて・・・潰さないように運ぶだけでも大変なことだわ―

―そうだろ。それだけでも大変なのに、渡瀬は引っ掛けるときに椅子から落っこちそうになったんだよ―

―・・・ああ。ここは病院だから落ちても大丈夫だって、言ってくれたよな―

―まぁっ!聡君、そんな酷いこと言ったの!?あなたの為にしていただいたことでしょう・・・。
瀬さん、ごめんなさいね―

僕と渡瀬の掛け合いの冗談に、姉だけが真剣だった。

僕は自分の姉なのでそれもまた可笑しかったけれど、戸惑う渡瀬の顔はもっと可笑しかった。


―それじゃ、聡君。私、帰るわね。渡瀬さんは、ゆっくりなさってね―

―もうすぐしたら、母さんが来るよ。一緒に帰るんじゃないの?―

―本屋さんに寄りたいのよ。遅い時間からお母さんをつき合わせちゃ、可哀そうだもの―

姉は僕以上の本好きで、一緒に本屋へ行っても、そろそろ帰ろうと声をかけるのは大抵僕の方だった。


―もう日が暮れるよ、姉さんは本屋に行ったら時間忘れるだろ。
夜にふらふら、母さんを心配
させる方が可哀そうだよ。明日にしたら?―

―やだっ、聡君ったら!お友達の前で・・・。ふらふらなんてしないわ、本屋さんに寄るだけよ。
それに子供じゃないのよ!?夜の七時や八時なんて、全然平気だもの!―

―聡、俺も帰るよ。元気そうだから、安心した。お姉さん、本屋経由でお送りします―

―え・・・いえっ!渡瀬さんはお見舞いに来て下さっているのに、そんなこと・・・―

―だからお見舞いは済みました。お姉さん・・・失礼ですが名前を教えていただけませんか?―

―・・・あの・・恵梨です―

―恵梨さんは子供ではありませんが女性ですから、夜間は危ないんです。聡、そういうことだな

―ごめんね、渡瀬。姉さん、渡瀬も外出時間に制限があるんだから、あんまり本屋ではゆっくりしないでよ―







恥ずかしそうに顔を赤らめる姉を、どちらが年上かわからないほど落ち着いてエスコートしていた渡瀬。

渡瀬は覚えているかな。忘れてはいないだろうけど、覚えていたとしても恋愛の対象としての記憶でないのは確かだ。

復学後も、渡瀬から姉の名前を聞くことはなかった。

ただ好きなタイプの女性は、一度だけ聞いたことがあった。


謹慎を言い渡された水島を宿舎に見送った後、立ち寄った花屋の奥の部屋で渡瀬と会った。

先生に戸締りを押し付けられた渡瀬は相変わらず不機嫌だったけれど、和花さんの話をするとその表情は和らいだ。


―俺はきちんとしていて、人の話を聞く人が好きなんだ―


渡瀬からは年上ということを考えると、それだったら姉さんにも少しはチャンスがあるかも・・・。

そんなことを思いながら、出来上がった予定表をフォルダに保存、メールでオフィスセンターに送った。





翌日、短縮授業が終わり食堂で昼食を食べながら、さっそく和泉に昨日姉に伝えた件を話してみた。

和泉はカツカレーを口いっぱい頬張ったまま、驚き混じりに声を上げた。

「でーっ!!聡の家・・もごっ!!?招待してく・・もぐっ・・れの!?・・ぅ゛わあー!!」

「ちょっ・・・!!ご飯粒が飛んだってば!!和泉!口閉めてっ!!」

和泉は口の中の物をコップの水で流し込んで、さらに大声を張り上げた。

「行く!!絶対行く!!おれっ!!嬉しいー!!」


・・・あまりの和泉の喜びように、文句も言えなくなってしまった。


「和泉にOKもらえて僕も嬉しいけど、先生は許可してくれそう?」

「もちろんさ!聡なら尚更だよ!おれ、これ食べたらすぐ兄貴のとこに行ってくる!」

和泉は大急ぎで、残りのカツカレーを食べ始めた。


「それじゃ僕は、和泉が許可をもらってから先生に挨拶に行くよ」

「いちいち挨拶なんかいいって。おれがちゃんと言っておく」

「そういうわけにはいかないよ、僕が両親に怒られちゃうよ。
和泉も先生から許可もらったら、長
期休みの外出予定表を提出しないと・・・・・・聞いている?・・・和泉?」

「食べた!!ごちそうさまっ!!じゃ、後で聡の部屋に行くから!」

人の話を半分も聞かず、和泉は席を立って行ってしまった。


まったく・・・そんなところは似なくていいのに。

和泉と先生の顔が揃って浮かんで、一人なのに笑いを堪えるのに苦労した。







夏休みまで一週間を切った校内は、賑やかに響く生徒の声がさらに明るさを増して華やかな雰囲気に包まれていた。

特に春から夏にかけては花々の最盛期なので、


一歩正門に踏み入れば 溢れる花々に

溜息が漏れ 目を奪われる


そんな景観の影響も、外すことは出来ない。


僕も昼食を終えると、和泉との帰省を思い描きながら、咲き乱れる花の道を通ってォに戻った。



本を読みながら和泉を待つ。

こういうところは姉と似ていると思ったが、姉はベッドで寝転んで本を読むようなことはなかった。

当然のようにそんな姉からきちんと机に座って本を読む渡瀬が思い出され、さすがに和泉や先生のことは笑えない気がしてベッドから机へ移動した。



和泉が部屋に来たのは夕方だった。

「聡ー!OK!!行っていいって!!」

「本当!良かった!でも遅かったね、説得に手間取った?」

「説得なんてないさ!二つ返事でOKだよ。それよりも兄貴の居場所探すのにひと苦労した。
たらの温室って言われても、全然わかんないじゃん」

「あは、そうだよね。ある程度温室や花壇を知っている僕でも、先生を探すのは大変そうだ」

「ここ広過ぎんだよ!あー、足疲れたぁ!」

和泉はわざと大げさなジェスチャーで、ベッドに倒れ込んだ。

「大げさだなぁ、まだ余裕ありそうだよ。和泉、バスケでは広いコートを走り回ってるじゃない。
にかく許可が出たなら外出予定表作成しなきゃ」

起きてと言おうとしたら、いきなり和泉の方から体を起こした。

「バスケと兄貴捜索は違うの!・・・あっ、そう言えば三浦!ほらフリースロー対決。
明日か明後
日ってことになってんだけど、返事来るはずなんだけどな・・・ちょっと待って」

和泉はポケットから携帯を取り出して、三浦にかけ始めた。

「・・・・・・あれ?」

「どうかしたの?」

「まだ留守電になってる・・・昼前からずっとだ」

和泉はむすっとして口を尖らせた。

「・・・三浦が連絡するって言ったの?」

「うん、今日返事するからって・・・」

「まだ夕方だよ、三年生は忙しいからね。予定表作ってる間に、掛かってくるよ」

「・・・そう思うんだけどさ。楽しいことって、何でも早く決めたいじゃん!予定表、手伝ってくれんだろ!
おれ、ずっとここだから普通の外出申請書しか書いたことないんだよね」


自分のせっかちさを多少反省したのか、すぐ機嫌を直してパソコンの前に座った。


予定表のシートをダウンロードして書き方の説明をしたり、僕の家から近い観光名所の話をしたりして、けっこう時間が経ったころ部屋のドアを叩く音が聞こえた。

僕よりも、和泉の方が素早く反応した。

ノックではなく、雑な叩き方にクラスメイトの誰かくらいに思ったようだった。


「誰だよ、もう・・・。叩くなって!いま開ける・・・うわっ、金髪の中坊じゃん」

金髪・・・

「流苛君、どうしたの?」

目の前の流苛は、元々白い肌がさらに透き通るほど・・・青ざめているように見えた。


「・・・村上さん・・」

唇を震わせ見上げた流苛の眼から、みるみる涙が溢れた。

その様子に、一瞬かける言葉を失った。


「渡瀬さんが・・・先生のところに・・・うぅ・・・」


ざわりと、心が振動した。


流苛の言う先生は、間違いなく本条先生のことだ。

それなら渡瀬が先生のところにいても、何も不思議じゃない。

はずなのに、心が振動から鼓動に変わりドクドクと高鳴るのは何故・・・。


「・・また・・タバコしたって・・・・・・」


タバコ!? まさか渡瀬が!

思わず和泉と顔を見合わせた。


「ウソだよ!僕ね、すぐ先生のところへ行こうとしたんだ!そしたら三浦さんが行っちゃダメだって・・・ぐすっ・・」


まさか渡瀬が!と否定しても、三浦の携帯の留守電が否応なしに符合する。


渡瀬に、何かが起こっている事実。


「部屋に戻ってろって・・・どうして・・うわあああんっ!!」


とうとう泣き出してしまった流苛を抱き寄せながら、突然の暗転にただ僕も和泉も呆然とするだけだった。







NEXT